先日、このようなご質問をいただきました。
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食事瞑想で食欲がとても落ち着きました。
以前と比べ物にならないくらい食事が安定しています。
食べきれなくて残す悩みが若干ありますが、
それほど心を揺さぶられません。
胃の声を聞きすっぱり止めても、もう少し食べてみても、
どちらも幸せなのです。
食事瞑想は大好きで一生続けますが、
理由は「好きなものを好きなだけ食べられ、
美味しくって幸せだから」なのです。
ただ、最近はちょっとここに悩みが出てきました。
以前はすべての食事で食事瞑想をするのが
初めてなので「これはどういう味だろう」とか
観察しながらできていたのですが
食事瞑想を経験済みの食事や慣れている食事だと
「美味しい、幸せ♡」しか浮かんでこないこともあります。
毎朝の歯磨きについて考察するのが難しいのと同じ?
様な心境です。
食欲自体は落ちついているので特に苦しさとかはありませんが、
なんというか以前のようなインパクトがある食事では
なくなっているためこれでいいのか不安になり…
これは、もう少し食事瞑想が進めば、
食事瞑想的な考察をする楽しみが蘇るのでしょうか。
それとも、この満たされた幸せな心境は
食事瞑想の終着点なのでしょうか。
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ご質問ありがとうございます。
とても興味深いご質問です。
ご質問いただいた方はずっと食事瞑想を続けてくださっていて、
しっかりと自分の食欲と向き合って自分の食欲を
落ち着かせることができている方です。
嬉しですね!!
そして今回の質問。
まだ食事瞑想をしっかりと行ってみたことが
無い方の場合は少し難しいトピックかもしれませんが、
何か気づきがあるかもしれないので最後まで読んでみてくださいね。
早速本題ですが、答えからいうとご質問者さんのおっしゃるような
楽しみとしては蘇って来ないのではないかな、と思います。
質問の中にある「楽しみ」は、新しいものを発見したり
自分が何か変化してることに対する楽しさであるように思います。
それはそれで大事な初期段階です。
でも初期段階は初期段階でしかなく、
変化したご質問者さんは初期段階には戻りません。
初期段階を通り越した後に現れる次の段階、
それが「慣れ」ですね。
瞑想に大事なポイントですが、
どんなときも外側に答えを求めてはいけません。
食事瞑想で言うと食べ物に答えを求めてはいけないんです。
以前のメルマガにもお伝えしましたが
その一口が人生最後の一口であるかのように味わう
ことが大切です。
慣れていることに気づいていきましょう。
そしてその慣れに気づいたら、
また人生最後の一口であるかのように味わってみる。
全ての食事でそのようにする必要はありませんが、
食べることは当たり前ではないことを一日一口でいいから
思い出していただけるといいかなと思います。
気づきを与えてくれるのは食べ物ではなく、いつも自分です。
いただいたご質問からは良い経過を
たどられていることが伝わるので
「一日一口、人生最後の食事」だと思って
慣れとうまく付き合ってみてください。
それでは今日もよい一日を!