意識と心の違いについて書いてみたいと思う。
「意識」というものがなんなのかを語るのは
本日はよしておいて(およしなさい〜)
ただ、意識と心が別物である、ということを論じてみたいと思う。
ただ、勝手に私が始めたこのテーマに
そもそもピンとこない人もいると思うので
(そりゃそうやろ、こんなテーマ誰もピンとこーへんわ)
まずそこから話してみる。
心が自分の唯一の内側で、
意識とは心ではないのか。
確かにそれも納得できる。
だって私に見えている世界は一つであるのだから。
もし二つの世界が見えているとしたら
心が見ている世界と
意識が見えている世界を切り分けて知覚し、
その違いもはっきり理解できるだろう。
しかし、そうはならない。
あなたの見ている世界は一つだ。
それは心と意識の違いがわかった後でも変わらない。
一つ言えるのは、
私たちは自分の心は比較的理解しやすい。
喜怒哀楽や、欲求や思考など、
それらは表面上に現れるからだ。
しかし、意識は心と比べて
その存在を理解しにくい。
原因は、その「知覚のしにくさ」だ。
荒波のように表面上に湧き出る心のにかき消されて
意識を感じることが難しくなる。
そうしてそれを続けていると、
普段から心だけが自分だと感じてしまい
意識の存在を忘れてしまう。
夜の海に浮かぶ満月を思い浮かべてほしい。
意識が満月で海が心。
それらは両者一体となって
風景を作り出している。
しかしもし、月が雲に隠れてしまったとしたら
その風景は海しか存在を感じないだろう。
これが、意識の存在を忘れているわたし、だ。
ヨガは「雲に隠れた満月を顕在化させる作業」
とも言い換えられる。
ヨガは意識を顕在化させる
もともと自己と心が一体化し、
両面テープのように粘着性を持っていたものが、
ヨガで乖離し、
心と意識が別々で知覚できるようになる。
私 と 私以外
だった世界が
私 と もう一人の私 と 私以外
になるのだ。
ここでの私(もう一人の私じゃない方)とは心のことを指す。
つまり、最初は心が主体である。
なぜなら、先にも述べたように
私は心と常に生きてきたし
その存在からの視点でしか
生きてこなかったからだ。
そしてヨガを通して
私(心)以外のもう一人の誰か(意識)の存在に気づく。
ここで、心と意識の乖離が起こる。
しかし最初はそれが何なのかよくわからないし、
日常に戻るとすぐにそれ(意識)は姿を消す。
私と私以外の世界に戻ってしまうのだ。
しかし、ヨガを繰り返していると
私(心)とは違うはっきりとした
もう一人の私(意識)の存在に気づく。
そして、それがいつの間にか
心を見ている私に気づくようになる。
それは、主体が意識へと変わっていることを意味する。
心をモニタリングしている私
こうなるとはっきりと
「私ともう一人の私と私以外」
の世界が出来上がる。
ヨガの第一段階はこの心と意識の乖離、
そして第二段階に主体を心から意識に置くことにある。
自分自身が暴れ牛だと気付いていなければ
暴れるものの手綱を引くことはできない。
だから、暴れ牛と自分を分けた存在として体感することが第一段階であり、
その後に手綱をひくためにはそこから主体を別のものに置くことが求められる。
第三には、一体化だ。
わざわざ乖離したのに、一体に戻すのか、と思われそうだが、そうなのだ。
ヨガの境地は「信頼に基づいた一体化」
ドッグランを思い出して欲しい。
犬が駆けているときに
自分は犬がどこかに行かないように常に犬に意識を向ける。
少しでも目を離そうものなら、
すぐに犬はどこかに行くだろう。
だから、あなた(意識)自身は
犬から目を離してはいけないのだ。
しかし、きちんと見ていた(モニタリングしていた)としても
犬がどこかに逸れることはある。
その時はあなたが、声を発して引き戻す。
正しいルートへと導く。
犬がそれることも、
あなたが目を離してしまうことも、
当たり前に起こり得ることなのだ。
ただ、それを繰り返しのトレーニングによって
そうじゃない状態へと導く。
それだけだ。
最終的には手綱などなくても
信頼に基づいた一体化によって
それらは自由に動ける。
それがヨガの境地だと思う。
ヨガに形はない。
何か具体的な事柄を指すものでもない。
ただ心と意識の乖離をおこし、
そしてトレーニングによって、
再び一体化を生み出す。
その過程がヨガだ。
そして一体化とは、
意識の存在を理解することなく心を感じることではなく、
意識が存在しながらも意識と心が一体となって生まれてくるものなのだ。
と私は思う。
意識は心の手綱をひく主体である。
ヨガは意識と心の「乖離、主体の変化、一体化」を経るプロセスである。
ゆえに、ヨガは心の手綱である。
私が自分の体験から学んだヨガは、こういうものだ。