前回の記事では執着を手放すという話でした。
体重の数値の管理はダイエットにおいて大事です。
しかし、それは目標であり将来の姿であり、
執着にしてはいけません。
その瞬間に結果にとらわれて
苦しんでしまうからです。
その数値に結果が出ていないと、
ダイエットでの最大限の頑張りを阻んでしまいます。とお話しました。
詳しくはこちら
せっかくダイエットが順調に
進んでいたのに
体重が減っておらず
急遽訪れたやけ食い。
感情に振り回されなければ
やけ食いに走ることも
食べて後悔することもないのに。
どうしてこんな感情になるのか。
どうすればいいのか。
というわけで、今日もヨガ哲学に
聞いてみましょう。
そもそも、自分の体を自分のもの、
思い通りになると思い込むこと自体
間違っているのです。
正確には、自分の体は自分のものでなはないと
知らないことが苦しみの始まりです。
(ヨガスートラ2章:煩悩、Klesa、無知)
「え?自分の体は自分のものでしょう?」
本当にそうでしょうか?
あなたはあなたの体が思い通りにならないから
悩んでいるのです。
加えて、感情も思い通りにならないから
苦しんでいるのです。
あなたはあなたが思ってるほど
思い通りにならない。
体も心も。
これって、他人と何も変わらない。
なのに、自分のものだ、
コントロールできると思い込む。
その間違いが、結果として
苦しむ行為を生み出すということです。
(食べるという行為も、食べたくないのに食べてしまうという意味でコントロールできていませんね)
なんで自分の体を自分のものだと
思い込むことが苦しむことにつながるのか。
貪る心を育むからです。
※ここからはヨガ哲学の少し深い部分に
入りますのでちょっとついてきてくださいね。
最終的に自分がどう思うかは別として、
そういう意見もあるんだ、くらいの
軽い気持ちでまずは疑わずに
話についてきてみてください。
本題に戻りましょう。
本当はあなたの体も他人の体もそもそも
「ひとつながり」なのです。
自分も他人もない、一つながり。
なのに、「自分の体だけはこうなりたい」という感覚を育みます。これが苦しみを作り出すのです。
・・・チョット待って。
そして、私は私を私じゃないとは思えない。
だって手を動かそうと思えば動かせる。
何かを触った感覚もわかる。
これは私自身じゃないの?という疑問も
生まれそうです。
えっと、それはそうなのですが
あなたの体はあなたの魂に一番近い存在なだけであって他人の体と自分の体は変わらないんです。
他人も動かそうと思えば動かせます。
友達に「親指を動かして」といえば親指は動かすことができますね。自分は「親指を動かそう」と思えば動かせます。
単に自分の方が動かしやすい、
自分の魂に近い存在なだけです。
距離感の問題。
なので、やはり他人も自分も変わらないのです。
イメージとしては映画のスクリーンがあって
あなたはそれを見ている存在です。
椅子に座っているのが本物のあなた。
スクリーンで動いている主人公を
遠くから見ている存在。
映画の中の主人公を自分
(椅子に座って見ている自分)だと
思い込んでしまう。
これが、自分の体を自分のものだと
思うということです。
自分と映画の主人公がシンクロしちゃうですね。
すると、映画の主人公が悲しくなると
自分も悲しくなり、楽しいことが起こると
ハッピーになるわけです。
でも、自分がそうではなく
傍観者だと知っていると
何が起こってもはたから見ているので
苦しくないわけです。
第三者目線、というようなものでしょうか。
俯瞰した視点。
・・・チョット待って。
自分のことをそんな風に遠くから見ていたら
体を変えようとも思わないんじゃないか。
そう思いますか?
長くなりましたのでそれは次回。
それでは今日もよい一日を(^^)/