前回は「意識と心の違い」
をお話ししました。
一見すると同じように
見えるそれらは実は別物で、
ヨガは意識を顕在化する作業である、
ということをお話ししました。
心と意識が別々で知覚できるようになると
私 と 私以外
だった世界が
私 と もう一人の私 と 私以外
になり、
心を俯瞰できる意識(メタ認知)が
育まれるというお話しでした。
今日はその後半です。
※前回のお話を確認してから
今日の記事に入ってください!
——–
ヨガの第一段階は心と意識の乖離、
そして第二段階に主体を心から意識に置くことにある。
自分自身が暴れ牛だと気付いていなければ
暴れるものの手綱を引くことはできない。
だから、暴れ牛と自分を分けた存在として
体感することが第一段階であり、
その後に手綱をひくためには
そこから主体を別のものに置くことが求められる。
第三には、一体化だ。
わざわざ乖離したのに、
一体に戻すのか、
と思われそうだが、そうなのだ。
ヨガの境地は「信頼に基づいた一体化」
ドッグランを思い出して欲しい。
犬が駆けているときに
自分は犬がどこかに行かないように
常に犬に意識を向ける。
少しでも目を離そうものなら、
すぐに犬はどこかに行くだろう。
だから、あなた(意識)自身は
犬から目を離してはいけないのだ。
しかし、きちんと見ていた
(モニタリングしていた)としても
犬がどこかに逸れることはある。
その時はあなたが、
声を発して引き戻す。
正しいルートへと導く。
犬がそれることも、
あなたが目を離してしまうことも、
当たり前に起こり得ることなのだ。
ただ、
それを繰り返しのトレーニングによって
そうじゃない状態へと導く。
それだけだ。
最終的には手綱などなくても
信頼に基づいた一体化によって
それらは自由に動ける。
それがヨガの境地だと思う。
ヨガに形はない。
何か具体的な事柄を指すものでもない。
ただ心と意識の乖離をおこし、
そしてトレーニングによって、
再び一体化を生み出す。
その過程がヨガだ。
そして一体化とは、
意識の存在を理解することなく心を感じることではなく、
意識が存在しながらも
意識と心が一体となって生まれてくるものなのだ。
と私は思う。
・意識は心の手綱をひく主体である。
・ヨガは意識と心の「乖離、主体の変化、一体化」を経るプロセスである。
・ゆえに、ヨガは心の手綱である。
私が自分の体験から学んだヨガは、こういうものだ。
忙しい現代、
目まぐるしいタスクに追われて
私たちの心は常にざわつき
私たちが心に囚われて
意識が雲に隠れがちだ。
だからこそ、
ヨガで自分の意識を顕在化させ
心の手綱をひく主人として
それを自分の中に育んでおくことは
とても大切だと思う。
私はこれからも
意識を顕在化させるヨガを伝えていきたい。
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